映画をつくるときは、つねに「この作品の目的は何か?」を考えます。 作り手の私自身が「何を訴えたいのか?」を軸にして取材対象を選び、人びとに伝わりやすいと信じた方法で言葉をつむぎ、映画を構成していきます。
2016年5月に『不思議なクニの憲法』のオリジナル版を発表したときは、主権者である国民(人びと)の「憲法への関心」を取り戻すこと目的としました。
そこで安保法制の国会デモからはじまった市民運動の高まりに触発され、広く市民の声を聞いて歩くことで「憲法に書かれていることは自分ごとだ」と訴える映画にしたのでした。その時点では、その内容のわかり易さで、ある程度の成果をみたと思っています。
ところが、映画を広めていくうちに、「9条の文言と現実の矛盾」という、私自身が避けて通れない問題につきあたっていました。
「痛みを沖縄と自衛隊に押しつけたまま、ただ《9条守れ》と言い続けることができるのか?」この問いかけは、皆で議論するべきテーマだと思ったのです。
「弱者を犠牲にしながら、見て見ぬ振りをする」
「問題に正面から向き合おうとせず、ごまかす」
安倍政権の得意とすることを、実は私たち自身も行なっているのではないか?
そこで参院選後に、私たちが抱えている矛盾について、本質的な議論が広がることを願って、9条にまつわる様々な意見を並列的に提示したリニューアル版を発表しました。
が、残念なことに、その議論は私が願ったほどの広がりを見せることはありませんでした。
そして、護憲派の意見が割れたまま、昨年5月、安倍総理による「9条自衛隊明記案」が飛び出します。
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」の文言を残したまま「自衛隊の存在を明記する」と言うのです。これほどの矛盾があるでしょうか?
あれだけ頑張ってくれている自衛隊を、違憲とされるのは可哀相だ」と、人びとの情緒に訴えるやり方で国民の心理を操る=「だます」あまりにも狡猾なやり方です。
自らの悲願である改憲を実現するために、マスコミの口を封じ、国民から「考え、議論する」手段を奪い、人びとの心理を巧みに操作する安倍政権のたくらみは、残念ながら今のところ成功しているのかもしれません。
しかし、憲法をどうするかを「決めるのは私たち」国民です。主権者です。
マスコミが改憲問題を積極的に論じないなら、国民投票の日まで、このようにちっぽけな映画によってでも、現政権の改憲案の危険性を訴え続け、草の根的に、一人でも多くの方に問題点を広めていかなくてはなりません。
安倍9条改憲、および、それに伴う「緊急事態条項」の新設を国民投票が許してしまったなら、日本は戦争のできる国になるばかりか、私たちの宝である「基本的人権」までもが奪われてしまいます。
ここは「9条の矛盾」や、「総理の解散権」などの問題を一時置いても、映画は明確に「安倍改憲に反対」の姿勢を示さねばならないと考えました。
新しいバージョンに取り組むにあたっては、幸い公開後に二度招かれた韓国で、ソウル大学・日本研究所の南基生教授のインタビューが叶いました。
南教授の「平和憲法と日米安保の奇妙な同居が、戦後の日本人の心を不安定にしてきたのではないか?」という示唆に富んだ指摘こそ、私たち日本人の本質を突いています。
「日本は、戦後東アジアの国々との関係に真正面から向き合うことから逃げてきた。今回の安倍改憲が、東アジアの平和に積極的に取り組む方向でなく、アメリカの基地国家としての機能を深化させる方向での過程を踏めば、その試みは必ず失敗するだろう」という南教授の意見はたいへん説得力のあるものでした。
また福岡の一市民、詩人・谷内修三さんは、言葉にこだわる人ならではの角度から、自民党が示した9条加憲のたたき台を読み解きます。
「現行憲法では、全ての条文で、主語が<国民>でした。それが自民党のたたき台文案ではなぜか<国家>が主語になり、国民は国家から規制を受ける対象となっています。
また、その後には、<内閣総理大臣は、内閣を代表して、自衛隊の最高指揮権を有し、・・・>と、主語が総理大臣になっている。これはおかしい」と。
つまり、権力の横暴から国民を守ってくれるはずの憲法を「根本のところで破壊している」という指摘です。
現憲法は、「国民主権」を保障し、個人の「基本的人権を尊重」し、時の権力から国民を守るためにあるという根本のところが覆されようとしている。ならば国民が一つになって、明確な改憲反対運動を広げねばなりません。
また、オリジナル版から紹介してきましたが、「戦争放棄」を謳い、平和を願う「日本の現憲法は、悲惨な戦争から生まれた美しい真珠」だという言葉を信じています。
そのことに、今あらためて一人でも多くの人が気づいてくださることを願ってやみません。